サッカーコラム
雑誌や色々なサッカーサイトの情報を元に、自分なりにその情報をまとめたコラムです。これを読んで、少しでもサッカーを好きになってくれたら幸いですね。

フランツ・ベッケンバウアー
2006年ドイツワールドカップ。ホスト国であるドイツを語るには、まずは今大会の組織委員長として尽力している、ドイツの皇帝、フランツ・ベッケンバウアーを知るべきでしょう。

選手として、そして監督としてワールドカップを優勝を経験した数少ない存在であり、それだけでも歴史に残る能力と実績を誇るのだが、他にもリベロ(DFでありながら、チャンスには攻撃に転ずるプレイスタイル)を確立したという実績があります。当時は『才能の無駄使い』とも言われたようでありますが、それを結果という形で一蹴。数々のタイトルをその手にした稀代の天才プレイヤー。後のドイツにも数多くの名選手が生まれましたが、その誰しも、彼の実績や威光には適いませんでした。

皇帝の意味
彼は確かに稀代の天才プレイヤーでしたが、初めから皇帝といわれたわけじゃありません。当時名門であった1860ミュンヘンに所属するプロプレイヤーのラフプレイの多さに嫌気が差し、バイエルン・ミュンヘンに所属し、ここで黄金時代を築きます。
ブンデスリーガ発足時、2部リーグからスタートとなったバイエルン・ミュンヘンをすぐさま1部リーグに導き、73ー74シーズンから3年連続欧州チャンピオンズカップを優勝
また72年西ドイツ代表では欧州選手権優勝手に入れる
どちらのチームも彼が中心となりゲームメイクし、圧倒的な強さをサポーターに見せつける。西ドイツの中心には彼がいる
そして、チームメイトからもその絶大なカリスマで信頼を集め、チームを統率したキャプテン。その認識があってか何時しかサポーターから『皇帝』と呼ばれるようになり、それに恥じない活躍を続けたのです。


初めてのワールドカップ
ベッケンバウアーが初めてワールドカップに参加したのは1966年イングランドワールドカップ。MFで参加し、攻撃の中心として決勝戦まで勝ち進みました。この時にベッケンバウアーは21歳と非常に若くしてレギュラーの座を勝ち追っていたのです。
さて、決勝相手は母国イングランド。この時にベッケンバウアーはイングランドのエースボビー・チャールトンのワンマークを命じられていました。絶対的エースを天才が抑えるの図式は誰しも納得な事でしょう。ベッケンバウアーもこれを忠実に実行しました。
そう、確かにベッケンバウアーは仕事を果たし、ボビー・チャールトンをフリーにせずに、攻撃の芽を摘み続けました。それだけでも非凡な才能でしたが、勝利したのはイングランド。
もし、ベッケンバウアーが今までどおりに攻撃の中心になっていたら…この結果はひっくり返っていたかもしれません。
しかし、彼の才能を肌身で感じたボビー・チャールトンは、試合終了時、ベッケンバウアーに言葉をかけたそうです。
「今のようなプレイを続けていれば、君は必ず栄光を手に入れるだろう」
と。
そしてその言葉は事実となりました。


アステカの死闘
1970年メキシコワールドカップ準決勝。西ドイツはイタリアと対戦します。この試合は西ドイツ至上、最もエキサイティングなシーソーゲームとして、語り継がれている事だと思います。
後半ロスタイムに西ドイツが同点に追いつき、延長戦前半に勝ち越し。しかしその後、イタリアに2点を追加され再び逆転。西ドイツも1点を返し、また同点に追いつくという凄まじい試合。この試合の延長戦直前、相手の悪質なタックルをその身を受けベッケンバウアーは右肩を脱臼
ピッチの外に運び込まれ誰しも試合続行は困難と思いました。(しかも交代要員は全て使い切っていた)
しかし、ベッケンバウアーはそれでは怯みません。肩をバンテージでぐるぐる巻きにし、無理やり固定して延長戦を戦い抜いたのです!その痛みは想像を絶する事でしょう。それでも泣き言を言わずに全力でプレイする姿は、まさしくゲルマン魂の塊!!
西ドイツは同点に追いついた直後に再び勝ち越され準決勝でその姿を消しましたが、ベッケンバウアーの気迫は世界中の人々に感動を与えました。


終生のライバル ヨハン・クライフ
ドイツの英雄がベッケンバウアーであるとしたら、オランダの英雄がヨハン・クライフ。このクライフもまた名選手であり名監督として歴史に名を残しております。
この2人は本当に対照的であり、選手として、監督として火花を散らしました。
クライフは【美しく勝つ】事を選手としても、監督としてもサッカーの方針としており、【つまらない0−1の試合で勝つよりも、スペクタクルなサッカーで2−3で負けることを良しとする】これは、サポーターから大いに喜ばれましたが、詰めの甘さからタイトルを逃した事もありました。
そして、ベッケンバウアーは【とにかく勝つ】事を優先し【0−1でも勝利は勝利】。非常に退屈な王者とも言われたようですが、鉄の意志でとにかくタイトルを物にしました。
事実彼が選手として、監督としてワールドカップに参加したとき、3位以下は取っていないと言う事があります。そしてクライフ(オランダ)は、優勝経験はありません。
しかし、ベッケンバウアーはクライフには敵いませんでした。
それは74年の事。
この年にベッケンバウアーはワールドカップを優勝し、欧州クラブチャンピオンの頂点にも立った。誰しもバロンドールはベッケンバウアーのものだと思ったはずです。
ですが、このバロンドールを手にしたのはライバルのヨハン・クライフ。サッカージャーナリストの目には堅実であり、現実的なベッケンバウアーのサッカーよりも、スペクタクルで派手なクライフのサッカーの方が印象に残ったのです。
この事実を知ったベッケンバウアーは「私にこれ以上何をすればよいのか!?」と本気で嘆いたそうです。それもそのはず、クラブとしても、国としても頂点に立ち、その立役者としてこれ以上のない活躍したのですから。
もし、この年にベッケンバウアーがバロンドールを受賞したら、バロンドールを3回獲得した選手はクライフでは無く、ベッケンバウアーとなったでしょう。(彼は2回バロンドールを獲得しております)
もし、このバロンドールがベッケンバウアーの物になっていたら…今後のサッカー史も大きく変わっていたかもしれません。

目次へ